昭和42年12月2日 夜の御理解



 今日、私は久留米の井上さんの所へ、今度、ご普請ができますので地鎮祭に参りました。ここからあの末永さんと今日は久留米から光橋先生がやりましたから、3人で、まあ参りましてから竹の用意を注連縄の用意をいたしましたけれども、大工さん達が非常に協力して下さいましたから、スムーズにまあできました。地鎮祭も終わりましてからもうあそこでは寒いですから、お家にお出でて頂いてから御神酒を一個差し上げたいというわけで、大工さん方もご一緒にみんなご直会を頂きました。
 もう実にその、何と言うですか、その実意丁寧なんですね、行儀がいいんです。3人の大工さんが見えとりましたが、なるほどこうやって一緒に差し向かえてお神酒を頂くんですけれども、もう魚なんかでもですね、あれやらこれやら手をつけられない。大体言うたらですね、まあ職人さん達なんかはもう言わば、やりつけてございますから、もうまあ言うならがぶがぶ食べたりがぶがぶ飲んだりというような、まあ人達が多いのでございますけれども、もう実にその、何と申しますか、行儀がいいんですね。
 本当に良い大工さんがまあ交渉が持たれたものだ、本当にもう前々からもう先生、ああしてお願いしておりましたから、本当に思いがけないよか大工さんに、しかも先生、値段も大変安い。
 まあこちらたちが建てておられる千本杉の方だそうですが。何軒かの家を見せてもらいましたが立派なその、もう例えばこちらが坪7万円、こちらが坪5万円としておられるその坪5万円の方がよいぐらいに見事にできて、本当におかげを頂きましたちゅて、まあ喜んで、まあ一足先に帰られました後にでございました。あちらのおばあちゃんが、先生おかげ頂きましてから、あの方達はもう昔で言うならば、特殊部落の方達でございます。
 ですからあのもう、本当にそのためにその、仕事が少ない。腕はよいけれども技術はよいけれども、ですからどうでもここに自分達が信用とらにゃならんというので、あれは皆内々の方達でございます。もうやっぱ家にまいりましたらですね、奥さんが電気かんなで一所懸命削っておられる。おじいさんとおばあさんが一所懸命柱を磨いておられる。もう一家をあげてからですね、その一生懸命でから、いわゆるその、それだけコストが安くつくわけなんです、ね。
 それであれだけ勉強ができなさるんですよって。もう本当にまあ、良い大工さんに巡り会いましたってから喜んでおられるんですよ。しかも、行儀のよいことがですね、そこにその、私はまあ卑屈になっておる、卑屈と言うことでもなかろうけれども、自分達がそういうふうに思うておられるもんですから、もう何にかんに控えめなんですね。もう何かにその言うなら下手に下手にその出られるわけなんですね。それがもう実に、まあお道の信心ぶりで見ると、信心の者が見ると、本当にお道の信者さんじゃなかじゃろうかというぐらいに実意丁寧に見えるわけなんです、感じがいいもんですね。
 どうぞ召し上がれって言っても、有り難うございますって言うてからですね、もう全然御刺身やら他の何に手をつけられんのです、ね。そして、したら先に棟梁になる人がですね、先にごめんしましょうかっちゅってからもう、大工さんじゃないごたるその、言わば行儀のよさなんですね。私本当に関心いたしました。
 この人たちは必ず、人間の信用がつくと私は思いましたですね。もうあれだけの行儀のよさとですね、あれだけ下手に出られるということ。しかも、そのそういうような気分からかどうかしらんけれども、人並みではおかげ受けられんたち、受けられない自分達だと言うわけなんです、ね。
 人が5つ働く時には自分達は6つも7つも働かなければできないのだというようなですね、人が10円の物なら8銭で売らなければだめだというようなですね、考え方があれが信用つかんはずがない。まだ若いです、大工です、ね。信心さして頂く者はもう本当に自分が分かることだとさえ言われております、ね。
 俺が、俺がとこう当たり前と思うておるところに、やはり問題があるのです。自分というものが分かってくれば分かってくるほどに、本当に私ぐらいな者が私のような者は、いよいよ教祖の神様が無学の百姓で何も相分からずと仰る例えなんです、ね。自分自身が何もできん。もう私ぐらいな者が、金光様の先生の、何ができる、何もできん。
 昨日、あなた若先生が祝詞を書いておるっちゅいましたもんだから(笑)、私はもう11時頃まで、(?)しよった。ところがその、御本部参拝で疲れて帰って来とるもんですから、そげな時間になってまだ起きてないっちゅうんです。そこで私はそのお取次よって出てきたあの中にもう、やっとの時間に間に合うような思いで、まあ祝詞を作成さして頂いて、ね、もう祝詞ひとつでも他所の先生方のように、まあすらすら書ける、やはり参考書を見たりあれを引っ張ってきたりしなければ、書けないぐらいの私でございますのですけれども、神様が御用に使うて下さる。
 できあがった祝詞を、言わば私流に、言うならばアレンジしてですね、作成いたしましたら、やはり、読ませて頂きながら心の中から感激が湧くようなお祝詞ができた。とりわけ、あちらのおばあちゃんが自分で設計されたんです、ほとんど。そして大工さんに打たせて大工さんからの意見を大工さんから意見を聞いたりして、また帰られたり。というですから、そういうようなことも私はノートの中に書きこませて頂いて。
 (?)のね、いわゆる(おいらくのみ?)をもってから、その設計までなさった。そしてこういう繁盛のおかげを頂いて、こうしてまた新たな、借家できるということ、ね。というようにその、今朝からの御理解なども頂かせてもろうてから、お祝詞作らして頂いたんですけれども、本当にさあ金光様の本当の資格といやあです、なるほど資格を頂いておるから資格があるわけでしょうけれどもです、実際は資格もない私に勉強もできてない私におかげ下さるのであるから、他所の先生のようなことじゃあおかげ受けられんと私は思うのです、ね。
 他所の先生が、んなら10時間奉仕をされるなら私は15時間も奉仕さして頂かなければ一人前じゃないと自分で思うとる、思うとるですから。だから私はおかげを受ける。だから私は神様が、まあ言うなら信用もして下さりゃあ、信者さん方もうちの親先生はと言うて、まあ信用して下さるのじゃなかろうかとこう思うのですね。ここんところをひとつ皆さんがですね、信心さしてもらって、いよいよ分かっていかなきゃならんのだと。
 俺は金光様の先生だと、俺は勉強ができとるからあれもできるこれもできるというようなところにはです、そういうその人の魅力がないんです、ね。どうぞどうぞと下から、こう押し上げられていくものでなからにゃほんなもんじゃない。人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと。自分が自身が上と思うておるとどうしても軽く見る。上から眺める。自分自身ができてないと思うから、ね、上から、下から上へこう見上げるようなおかげが頂けれるのだと、ね。

 先ほど、おばあちゃんが一枚の名刺を持ってまいりまして、今日この方が3人連れで見えられたと、何かボーイスカウトの福岡県連盟の方らしいんです。若先生を訪ねて見えておられる。ですからもう、何ち言いよんなさったですかと言うてから、それがあなたもう細か声で言わっしゃるもんじゃけん聞こえん程度。自分の(うえ?)のということは忘れて、分からんでから、細か声で言い出すわけ(笑)。
 何のわたしに文句で言いなさるばってん、おばあちゃん自身が耳が遠いもんだから分からん、聞こえんのです。そして、あの人が細か声というようなことなんです。そんなことがあるですよね。あるお爺さんがですね、私ん鶏あくびばっかりするっちゅわっしゃったお爺さんがあったそうです。(笑)
 何がじゃろうか、自分が耳が、全然聞こえんもんじゃからコケコッコー言いよるじゃろうけれども、あぐうあぐう言いよるしか聞こえんわけですよね、ね。うん。だから家の鶏はあくびばっかりするがないちちから言うちゅう。(笑)私共これで笑いよるけれどもですね、神様からそれこそ大きなお声をもってお気づけを頂いたり、お知らせを頂いたりしておるのですけれども、さあ心の耳が聞こえんから、それが分からん、ね。
 神様があくびばっかりしござるというふうに見えるのじゃないでしょうかね、うん。私共が本当にですね、謙虚な態度で、ね、本当に事の事態というものをです、見聞きいたしておりますと、そこに神の姿を見ることができる、そこに神の声を聞くことができる、ね。
 鴨居で頭を打った、ああ痛よ言う前に、すいません、神様から叩かれているんだとすぐ気がつかんのです、ね。そしてああ痛いを先に言う、ね。自分がけつまずいておってから、ね、そしてそのこげなもんがここにあるけんでけつまづいたと言うて、そのあれのことに、いわゆるそこに神の声、神の姿があるんだけれども、ほら地を低うせんから、ほら慢心しておりゃせんか、ね、そういう生き方ではほら転ぶぞ転ぶぞと言うて下さっとるだけれども、それが聞こえんからけつまづいて転ぶようなことになるのじゃないだろうか、ね。
 私は今日の井上さんところの地鎮祭を奉仕さして頂いて、その実意丁寧な大工さん達の様子を見せてもろうて、ね、何というその実意丁寧、これなら必ずまあだ若いけれどもです、必ず成功されるだろう、必ず(せっかくのんだら?)もうあの人に頼もうというような時代がくるに違いはない。それは自分達がこうだからという人と引け身を感じておられるから、自分達のような者だから人が7円のところは自分なら5円にさしてもらうというようなです、言わば勉強。しかもそのところを、なら損しちゃできんから、さあ家内にも協力してくれ、両親にも協力をしてくれとこういうわけなのです。
 だからいわゆるコストが安くできるということなんです、ね。それで、皆さんに喜んでもらい、皆さんに信用頂くためにはそれだけの努力精進が必要だと。そういうようなことを目の当たりに見せて頂いてですね、本当に私共が、本当にひとつ自分達は低い者だというような感じ、それが卑屈となってはなりません、ね、けど自分と言う者を見極めれば見極めるほど、自分ぐらいな者がと、教祖が仰る、いわゆる無学の百姓で何、何も相分からないとこういうところ、ね。私共もいわゆる無学の商売人であった、ね。何もできない。他所の先生方のような、言わば宗教的教養もない。
 祝詞ひとつ作らして頂くでも、参考文を引き出して来なければできないぐらいな私なのですけれども、けれども私の書いた、言わばそのものを神様がいちいち受けて下さればそれで結構なのですからね、ね。だから私は人並みではいけない、人がやはり5時間奉仕されるなら、私は10時間でも15時間でも人の倍でも一生懸命にならせてもらわなければ相済まん。
 人と一様にいかんのだという思い方がです、神様からもご信用を頂くことができ、信者の皆さんからも、まあ信用して頂くことができるようにおかげを頂けるのじゃなかろうかというふうに思うんです、ね。
 どうぞ、自分自身をいろいろの場合から自分という者を本気で見極めさして頂いて、ね、実意丁寧な心、実意丁寧な言葉、実意丁寧な態度と、といったようなものがです、私は自ずと身についてくるようなおかげを頂かなきゃならんと思うね。どうぞ。



明渡真